そんなことが(;´Д`)

みなさん おはようございます。5日午前6時現在、曇りで気温は23℃。気分は(-_-)

昨日、マイバーさんが、「徳島新聞の読者の手紙欄を見てみ~」って言うので見てみると、知り合いの中川さんの投稿が掲載されていました。

中川さんとは、10日ほど前にフジバカマの挿し木を一緒にさせていただいたばかりでした。

牟岐町でも、あの戦争でたくさんの方が戦死をされ、残されたご家族は辛い思いをされてきたと思いますが、中川さんもその一人だったのですね。

マイバーさん、「読んでいるうちに涙が出てきて止まらなくなった」って、言っていましたが、私も同じことに。

二度と戦争はしない。そのためにも憲法9条は、しっかり守らないと(; ・`д・´)

以下、掲載された投稿文を紹介します。原文そのまま。

梅エキスと戦病死の父思う
牟岐町 中川英之・82歳・農業

私が子どもの頃、戦争末期で物資や医薬品が少なく、祖母や母が手間暇かけて自家製の「梅エキス」をこしらえてくれた。その梅エキスには、つらい思い出がある。
私が国民学校1年生の昭和18年7月のことだ。徳島の連隊にいる父から母に「アスメンカイニコイ」の電報が届いた。牟岐駅始発の汽車に乗り、3時間半かけて徳島へ。蔵本の連隊に着いて父が来るまでのわずかな間に、手に持っていた風呂敷包みを落として梅エキスの瓶が割れてしまった。祖母と母が戦地へたつだろう父に持たすはずだったのに。
やがて向こうから父がやって来た。守衛に敬礼し、私の頭をなでてくれたのがうれしかった。母に背負われている生まれて3カ月の妹の顔をのぞき込んでいたのを、今でもはっきりと覚えている。だが、その時私には分からなかったが、母はこれが最期になるかもしれないと感じていたのであれば、どんな思いだったのだろう。
日付はないけれど、待ちに待った母あてに軍事郵便のはがきが届いた。ビルマ(現ミャンマー)派遣隊と書かれ検閲印があり、文面は「自分は至って元気にしている。お前も野良仕事に忙しいだろうが体に気を付けて子供や年寄りをよろしく頼む・・・」。だが次に届いたのは「昭和19年6月1日ビルマ方面に於いて戦病死」の広報だった。最後は、白木の箱に入って帰ってきた。祖母や母は泣き崩れた。
年月がたってビルマでは多くの兵隊が飢えと病気で死んだと知り、あの梅エキスを落とさなければ、父は元気で帰って来られたのにと思い、残念でならない。その梅の古木は、わが家で今も健在だ。毎年早春には、白い花を咲かせ6月ころには実が熟す。それを見ると、さまざまなことを思い出し涙がこぼれる。

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