同級生がアルコールとたたかっています。No.41

あれから31年になるのですね。
当時、私は、日本共産党の一員でしたから、国民に銃を向けるなんて、そんなのが社会主義国かと情けない思いをしたことを覚えています。日本共産党中央委員会も「鉄砲政権党」と、中国政府の対応を厳しく批判しました。
ご存じない方が多いと思うのですが、その当時、日本共産党と中国共産党とは、断絶状態でした。1966年、毛沢東によって発動された「文化大革命」と一体に彼らが言う4つの敵の一つに日本共産党も入っていて、日本共産党に対する干渉攻撃が酷くなりました。しんぶん「赤旗」の記者が、空港で紅衛兵などに暴行を受け、負傷して帰国したという事もありました。
その後、中国共産党が日本共産党に対する干渉の過ちを認め、1998年、32年ぶりに関係を正常化しました。もちろん、日本共産党は、正常化にあたっても、中国には、「政治上、経済上の未解決の問題(綱領)」があるという、認識のうえでです。
チベット問題、作家 劉暁波氏がノーベル平和賞受賞時の中国政府の自由と人権に対する態度。核兵器廃絶活動の妨害。東シナ海、南シナ海における大国主義、覇権主義的行動。香港に導入を決めた「国家安全法」の成立。
日本共産党は、正常化してから10年余り、中国の動向を見極め、今年1月に行われた第28回党大会で、「中国の政権党は、社会主義、共産党を名乗っていますが、その行動は、社会主義とは無縁であり、共産党の名に値しません」と、中国の綱領上の規定を見直しました。(詳しくは、日本共産党ホームページで。)
どこの国の、どんな政党であれ、より良い社会を目指す市民の行動を力で抑え込むような政党、自らも入って決めた国際ルールを無視するような政党には未来はないでしょう。

川辺秀年
昨日 12:27
·アル中になりました No.41 天安門
31年前の今朝起こった。 今も息子・娘を待つ母親たち
1989年6月4日直前まで、私は大連に居た。米国向けコンテナークレーン・プロジェクトで、住まいは大連西の郊外、旅順南路にある風情豊かでこじんまりとした星海賓館。
曾ての清朝皇帝の別荘で、日本統治時は、「星が浦山荘」と呼ばれていた。星が浦海水浴場(今は、星海公園)の少し旅順よりにある。現在は史跡となり公開されていない。長期滞在客と従業員は仲が良く、家庭的な雰囲気があった。
呉工場から来た技術指導員達は料理が上手だった。厨房を借りてカレーや、ブラジル仕込みのシュラスコを作って他の客や従業員にも振る舞っていた。私も呉の技術者からブラジル風焼き肉の仕込み方を習って、今はニックキ猪や鹿をバーベキューにしている。
ホテルより西は旅順に至るまで、漁村ばかりと思っていたが、5月に入った頃から、どこから湧いてくるのか、毎日学生たちのデモが前の旅順南路を埋め尽くして、市内を目指す。宿泊客やホテルの従業員、周囲の住民達が水や食料、そして資金を学生たちに提供する。
駅は学生たちをフリーパスさせて、毎日多くの学生が、北京行き列車に乗り込み、天安門を目指した。何人が犠牲になったのだろう。その後、子供が帰って来なかったお母さん達の声を聞いた事が何度かあった。聞くのが辛かった。
私は野次馬根性から、ホテルのタクシーで市内に向かったが、危険だからとホテルのお姉さんが付いて来てくれた。途中でデモに囲まれて立ち往生し、駅は諦めて歩いてホテルに帰った。
それでも何とかプロジェクトは完成し、祝賀会を開いたが、予定していた中央政府の幹部、大連市長や日本の総領事は参加できなかった。緊張の中での祝賀会となった。祝賀会で呑んだ酒の味は覚えていない。
1980年の第一次円借款プロジェクトの責任者で、私が人生の師と仰ぐ、当時の事業部長は、祝賀会の後、天津・北京に向かった。情勢が緊迫してきたので、天津の設計院に連絡し、事業部長に天津から直接帰国する様に伝言をお願いしたが、既に北京へ出発していた。
北京所長は、退職していた私をプロジェクトに呼び戻してくれた曾ての上司だった。即、北京事務所に電話したら、事業部長は先ほど天安門広場に行ったとの事。
「何やってんだ!事業部長!私達は心配してるんだよ!」何度もご自宅に泊めて頂きご馳走になった奥様の顔が目に浮かぶ。奥様から心配して何度もお電話を頂いた。
気を揉んでいたら事務所に帰って来たとの事。即、帰国をお願いした。「北京所長はどうするの?」一旦空港まで行ったが、日本人女性や子供達が居たから、席を譲って、事務所に帰ったとの事。事務所は北京ホテルの西の端4階、天安門広場が見渡せる。そこで見た一部始終を後から聞く事となった。
大学の後輩で妻の同級生が某全国紙の北京特派員だった。彼の家に電話したら、奥さんが「銃声が聞こえたから、今その方向に飛んで行った。」との事。そうか報道は事件の渦中に飛び込むのが仕事だった。奥さんには、「仕事は大切だけど、自分の身を守る事を忘れない様に伝えて下さい。」と言って受話器を置いた。
そして運命の6月4日がやって来た。
あれから31年、今も帰らない息子や娘を待ち続けている母親たちがいる。
毎年訪れる6月4日、憤りとやるせなさと哀しさを抑えるのは酒しかない・・・そしてアル中になりました。

 

 

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